2016年5月4日水曜日

2016-05-04 弘前・藤田記念庭園



藤田記念庭園は弘前城追手門通りを西方面に向かい、弘前市民会館の向い に側に位地する洋風庭園と池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)日本庭園の融合庭園となっている。園内にある洋館、和館、倉庫等が2003年(平成15年)に国の登録有形文化財の指定を受けている。

Wikipedia
沿革
日本商工会議所会頭も務めた実業家である藤田謙一が、1919年(大正 8年)に郷里である弘前市に別邸を構える際に東京から庭師を招いてつくらせた江戸風 な景趣の庭園である。園内は、高さ13mの崖地をはさんで高台部と低地部に分かれており、高台部は岩木山を借景した洋風庭園で、低地部は池泉回遊式の日本 庭園となっている。総面積は約21,800m²に及び、東北地方でも有数の大規模な庭園である。
別邸である洋館は、高台部にあり、木造モルタル2階建てで、玄関先まで反りを付けて下ろされた袴腰屋根や階段吹抜け部分の八角形の塔が印象的なデザインと なっており、設計は堀江佐吉の六男金造、施工は長男彦三郎が行った。同時に建てられた岩木山麓の農牧場開拓を目指して設置された開発事業事務所の倉庫は、 イギリス積みによる煉瓦造り2階建てで、軒部分の煉瓦を4重にした軒蛇腹が特徴的な建物となっている。 和館は、木造平屋建てで、1937年(昭和12年)板柳町に藤田謙一の本宅として建てられたものを、1961年(昭和36年)に現在の場所へ移築してきた ものである。
当園は藤田の私邸として整備されたものであるが、藤田の死後、弘前相互銀行(現:みちのく銀行)頭取だった唐牛敏世に譲渡され「弘前相互銀行倶楽部」(のちに「みちのく銀行倶楽部」)として開放されてきた。しかし、1979年(昭和54年)に唐牛が亡くなり、その後はほぼ放置状態となっていたものを、 1987年(昭和62年)に市制施行百周年記念事業の一環として弘前市が買収して復元整備し、1991年(平成3年)に開園した。建築物も見学可能で、う ち洋館は喫茶室のほか50人収容のホールや小会議室の貸しスペースとして利用されており、倉庫(考古館)は砂沢遺跡出土品(国の重要文化財)をはじめ、弘 前市内の遺跡出土品を中心とした考古資料を展示している。

人物
青森県弘前市に、武将明石全登の末裔で津軽藩士だった父明石永吉、母ともの次男として生まれる。5歳のときに、親戚の藤田正三郎の養子となり、藤田姓を名乗る。
東奥義塾を中退、1891年(明治24年)に上京し、東京・神田駿河台の明治法律学校(現在の明治大学)に入学する。法学博士・熊野敬三の書生になる。同 学を卒業し、大蔵省(現在の財務省)に入省する。
1901年(明治34年)に大蔵省を辞し、翌1902年(明治35年)、「天狗煙草」で知られる岩谷松平の岩谷商会の支配人となる。岩谷の個人商店だった 岩谷商会を会社組織化し、専務理事となった。1904年(明治37年)の専売制実施の際、政府による同社の買収金額を莫大なものとした。
1909年(明治42年)5月に東洋製塩に入社、取締役となり再建に尽力、翌1910年(明治43年)には同社を台湾塩業と改称し、専務取締役に就任し、 鈴木商店顧問となった。1912年(大正元年)9月10日、映画会社4社統合による日活設立の音頭をとり、のちに同社の社長となるほか、堤康次郎に招かれ 千ヶ滝遊園地(1917年)、箱根土地(1920年、後のコクド、現存せず)の社長に就任、東京毛織専務取締役、そのほか、多くの会社の代表や取締役を歴 任、育英事業を手がけるべく、東京に藤田育英社を創立する。
1926年(大正15年)、53歳のとき、藤山雷太、指田義雄に次いで東京商業会議所の第3代会頭となる。1928年(昭和3年)、55歳のとき、日本商 工会議所の初代会頭に就任、同年4月4日、勅撰を受け貴族院議員となる。また、国際労働会議に資本家代表として出席している。同年、八千代生命保険の小原 達明が帝国火災保険の社長を退陣、藤田がかわって社長に就任している。
1929年(昭和4年)11月6日、売勲事件で賞勲局総裁天岡直嘉に5,000円を贈ったとして召喚収容されるが、即日釈放される。1935年(昭和10 年)9月28日、大審院で上告が棄却され、藤田に懲役3月(執行猶予3年)の判決が確定する。同年10月4日、貴族院を除名となり、政界を引退する。
1946年(昭和21年)3月12日に死去。満73歳没。