2017年6月23日金曜日

2017-06-23 #10 旧松尾鉱山跡地・アスピーテライン









歴史
寛政8年(1766年)に書かれた「寄木村茶臼ヶ嶽下通、沢目筋」の硫黄の調査願いという文書があり、鉱山の存在は古くから知られていた。また1879年(明治12年)にも硫黄鉱山の記録はあったが山深いため採掘及び輸送の困難から開発は停滞していた。1882年(明治15年)に地元の佐々木和七による大露頭の自然硫黄が発見されてから、1888年(明治21年)には小規模な試掘を試みたが失敗した経緯があった。

1911年(明治44年)に横浜の貿易会社増田屋が経営を掌握してから、多額の投資による本格的な採掘が始まった。鉱山がある標高約900メートルの元山(現在の八幡平市緑ヶ丘)から麓の屋敷台(東八幡平、現在の八幡平市柏台)まで索道を通し、1934年(昭和9年)に東八幡平駅から花輪線大更駅まで松尾鉱業鉄道を敷いた。

一時は日本の硫黄生産の30%、黄鉄鉱の15%を占め、東洋一の産出量を誇ったが、高度成長期になると硫黄の需要減や輸入の増加で採算が悪化。さらに1960年代後半、石油精製工場において脱硫装置の設置が義務付けられたことで、脱硫工程の副生成物として得られる硫黄の生産が活発化し、硫黄鉱石の需要は完全になくなっていった。生産コストの低減を図るために露天掘りへの転換も進められたが、1969年(昭和44年)に会社更生法を申請して倒産、全従業員が解雇された。黄鉄鉱に絞った新会社が設立されたが、これも1972年(昭和47年)に鉱業権を放棄して倒産し、完全な閉山となった。

鉱山町
標高900メートルの山間地に開かれた大鉱山は、1920年(大正9年)に人口1132人、1935年(昭和10年)に4145人、1940年(昭和15年)に8152人、最盛期の1960年(昭和35年)には1万3594人に達した。また第二次世界大戦中には朝鮮人労働者も投入されてた。

戦後は労働者の確保を図るために家族を含めた福利厚生施設の充実が急務とされた。このため公団住宅が一般化する以前から、水洗トイレ・セントラルヒーティング完備の鉄筋コンクリートによる集合住宅や小・中学校、病院、活躍している芸能人を招いて公演を催す会館など、当時の日本における最先端の施設を備えた近代的な都市が形成され、「雲上の楽園」とも呼ばれた。閉山後、木造の建物は延焼実験目的で焼却され、鉄筋コンクリートの建物だけが現在も山中に廃墟として残されている。

環境
鉱山開発後は硫黄精錬から出る煙によって、土壌が強い酸性になり、鉱山跡地と製錬所跡は草が生えない荒地になった。また、廃坑から流出する多量の排水(鉱毒水)は毎分17~24トン。ヒ素を含むpH2前後の強酸性となっており、排水が岩手県下の北上川流域・支流はもとより、宮城県北部、北東北の太平洋沿岸に多大な影響を与える事が予想されることから、中和施設が建設された。2010年代に入ってからも24時間体制で稼働を続けているが、年間5億数千万円の処理費用は岩手県にとって大きな負担となっている。

一般向けの見学者コースは特に設定されていないが、岩手県下の小・中学校では社会科と理科の統合授業として見学を行う学校もある。恒久排水路トンネルの先端部には鉱毒水確認用の窓があり、見学者向けには特別に水を汲むことができる。鉱毒水は非常に澄んでおり、口に含むと血液と同等かそれ以上の鉄臭さが広がる。また恒久排水路トンネルは坑道をコンクリートで封鎖した構造の為、処理施設の稼動当初は坑道内に置き忘れた道具類が流れてくることがあったが、近年では殆ど見られなくなった。