2021年3月17日水曜日

2021-03-17 #03 浅虫・善知鳥トンネル(うとうまいのかけはし)

青森市街側
 
有多宇末井之梯(うとうまいのかけはし)

久栗坂と浅虫の境になっているトンネルの辺りを「善知鳥前」と呼んでいる。ここの突出した先端を「善知鳥崎」という。

吾妻鏡(東鑑とも書く)にも「外ヶ浜」と糠部(ぬかべ)の間にある有多宇末井之梯」と記録されているように、ここが津軽と南部の境であったようである。また、津軽一統志に「鳥頭前梯外ヶ浜に有り、東鑑有多宇末井梯、いま塔前かけはし」とある。古くから「うとう」と呼ばれていた。

吾妻鏡によると、文治5年(1189)に平泉藤原氏の残党、大河兼任等が鎌倉軍に対して最後の防戦地にしたところであると記している。800余年前のことであるから古戦場である。

兼任等は主家再興の夢を破られたものの、反乱後の津軽、南部の歴史に大きな変動が見られるようになった。

それは、幕府が藤崎安藤氏に外三郡(奥法(おくのり)・江流末(えるま)・馬(うま))の承認や、岩館(平賀郡)に蘇我氏を地頭代(じとうだい)職として派遣した。また、南部光行を甲斐の国から糠部へまわして中央集権化が次第に進められるようになった。

なお、善知鳥前は「往来嶮岨(おうらいけんそ)の地(行き来の環境が厳しい場所)」であった。「怪岩波に洗はるる山下の小徑に梯を掛け、恐怖戦慄しつつ辛うじて通過した」と記録に残されている。越後(現:新潟県)の親不知(おやしらず)、小不知(こしらず)とともに二大険路といわれた。

文化年間、わずかに岩中を開削(かいさく)されたが、明治9年(1876)、明治天皇の東北巡幸の機会によってトンネルが開通した。史蹟として重要な地である。


Utoumai-no-kakehashi

The area around this tunnel is known as Utoumae.This protruded area is called Cape Utou.

This was apparently the border between the Tsugaru and Nambu fiefs.

This was the scene of abattle between Kaneto Ookawa, a retainer of the Fujiwara of Hiraizumi, and the forces of the Kamakura Shogunate in 1189.
     
     
浅虫温泉街側